秦雅則 「幼稚な心」
暗い部屋で私は立ちすくむ。プリントを照らす蛍光灯の光は最小限に絞られていて、目を凝らさなければその細部まで見ることはできない。光と写真、それを包むアクリルの冷たい物質感が浮遊している。向かい合う写真の間をすり抜けながら、少しずつ部屋の奥に進む。それまで見える世界を甘受してきた眼が、今は写真に見ることを強いられている。
裸の男女がいる。彼の友人13人と、彼自身。写真は被写体その人の部屋で撮影されたものだが、表情はどこか不自然で、笑顔すら曖昧にこわばっているようにも見える。これらの写真は、彼らが許す限界まで肌を曝すという過程から生まれた。その関係性から写真には幾許かの親密さが漂うが、それ以上に目につくのは緊張感であり、作家を含めたモデルの自意識でもある。
自意識、ナルシシズム。発達途上の未熟なものとしてそれらは認識されている。自己愛は幼児期には僥倖として存在するが、青年期においてはコンプレックスとなり、いい年になるとトラウマとなって精神を苛んでしまったりするように、いつまでも付きまとう災厄にもなりかねないものだ。他人のそれはもっと幻滅だし、自分で気付いてしまったら尚更、恥ずかしさを覚えるだろう。事実、モデルの中にはこの作品を見て”自分の一番見たくない顔”だと感じたり”いたたまれない気持ち”になったりしている人もいる。本来は隠しておきたいものなのだ。ただ鏡を見ていてもなかなか気づけないもの、他者を合わせ鏡のようにして初めて気付くことでもある。自己愛の果てに、それでも愛してほしいと他者の承認を求めるのはわがままだが、作家はそれを拒否することなく受け容れ、愛おしみ、焼き込まれたプリントに封じ込め、暗闇の中に放った。これを見ようとする者は、いやが応にも自分に似た奇妙な人たちと鼻先で向き合わなければならない。
秦雅則はいつも極論を呈示する。彼はこれまで写真に着彩・切り絵などを施し、独特の作風を作り上げてきた。この流れは前作の「遊び言葉」で写真に直接言葉という記号を貼り付けたところで一つの臨界に達した。彼が彼自身を語るために費やしてきた作業は写真という枠を超え、遂にフィクションとしての自己像を作り上げるだけの強度を持つまでになった。
今作で写真の表面にあるものは、局部に荒っぽく貼られたテープのみである。この試みは見るものに冷静な判断を要求する。テープはその即物性ゆえに画像とのコントラストが強い。いわゆる美的感覚に基づいたヌードではないと宣言しているようなものだ。これは制度上の壁でもあるが、結果として彼の写真にこれまであった過剰な表面性がごっそりと剥がれて、作家自身が露わになったとも言えると思う。そして、"見せる"行為の裏にべったり張り付いた”隠す”ことすらも露わにしようという試みに見えた。
彼がこれから目指すものが”成熟”なのか”醒めた幼稚さ”なのか。今のところはまだ分からない。しかし今回の展示は明らかに彼のコアを示したものであり、どう目を背けようとしても引き付けられていく重力場に違いない。確かに今作は多くの人に受け容れられるものではないだろう。彼は自作に対し"邪悪"というセンセーショナルな言い方をしたが、実際には誰もが持ちうる"屈折"なのだと思う。それを直視し再構成し、多面体として表現していける作家として今後を期待している。
裸の男女がいる。彼の友人13人と、彼自身。写真は被写体その人の部屋で撮影されたものだが、表情はどこか不自然で、笑顔すら曖昧にこわばっているようにも見える。これらの写真は、彼らが許す限界まで肌を曝すという過程から生まれた。その関係性から写真には幾許かの親密さが漂うが、それ以上に目につくのは緊張感であり、作家を含めたモデルの自意識でもある。
自意識、ナルシシズム。発達途上の未熟なものとしてそれらは認識されている。自己愛は幼児期には僥倖として存在するが、青年期においてはコンプレックスとなり、いい年になるとトラウマとなって精神を苛んでしまったりするように、いつまでも付きまとう災厄にもなりかねないものだ。他人のそれはもっと幻滅だし、自分で気付いてしまったら尚更、恥ずかしさを覚えるだろう。事実、モデルの中にはこの作品を見て”自分の一番見たくない顔”だと感じたり”いたたまれない気持ち”になったりしている人もいる。本来は隠しておきたいものなのだ。ただ鏡を見ていてもなかなか気づけないもの、他者を合わせ鏡のようにして初めて気付くことでもある。自己愛の果てに、それでも愛してほしいと他者の承認を求めるのはわがままだが、作家はそれを拒否することなく受け容れ、愛おしみ、焼き込まれたプリントに封じ込め、暗闇の中に放った。これを見ようとする者は、いやが応にも自分に似た奇妙な人たちと鼻先で向き合わなければならない。
秦雅則はいつも極論を呈示する。彼はこれまで写真に着彩・切り絵などを施し、独特の作風を作り上げてきた。この流れは前作の「遊び言葉」で写真に直接言葉という記号を貼り付けたところで一つの臨界に達した。彼が彼自身を語るために費やしてきた作業は写真という枠を超え、遂にフィクションとしての自己像を作り上げるだけの強度を持つまでになった。
今作で写真の表面にあるものは、局部に荒っぽく貼られたテープのみである。この試みは見るものに冷静な判断を要求する。テープはその即物性ゆえに画像とのコントラストが強い。いわゆる美的感覚に基づいたヌードではないと宣言しているようなものだ。これは制度上の壁でもあるが、結果として彼の写真にこれまであった過剰な表面性がごっそりと剥がれて、作家自身が露わになったとも言えると思う。そして、"見せる"行為の裏にべったり張り付いた”隠す”ことすらも露わにしようという試みに見えた。
彼がこれから目指すものが”成熟”なのか”醒めた幼稚さ”なのか。今のところはまだ分からない。しかし今回の展示は明らかに彼のコアを示したものであり、どう目を背けようとしても引き付けられていく重力場に違いない。確かに今作は多くの人に受け容れられるものではないだろう。彼は自作に対し"邪悪"というセンセーショナルな言い方をしたが、実際には誰もが持ちうる"屈折"なのだと思う。それを直視し再構成し、多面体として表現していける作家として今後を期待している。
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